貞操を誓いたがる人というのは、
多分、世の中の大半だろうと思う。

思うとわざわざ書くのは、


一夫一婦制が
貞操管理その者だからだし、

結婚指輪だったり

永遠を誓うという行為を


世の大半の人が感動して
それを求めている現実が有るからである。



だから、

「マディソン郡の橋」や「失楽園」は

感動作として受け入れられるのに、


芸能人の不倫は、スケープゴートとして
世の中で批判されるという

矛盾する現象がおきてしまうのだ。



歴史をひも解くと、

貞操観念と言うのは
多くの場合、女性に対して求められるものだった。


それは、

「誰の種の子」という部分を
必要以上に重視される家父長制度のせいである。



だから、


貞操帯と聞いて、
男性用の方を思い浮かべるのは

女王に飼われたい被虐嗜好者と
男性を肉体的に支配したい嗜虐者である。


個人的には、

貞操と言う概念は


生き物として矛盾してるから
少子化改善したいなら無視すればいいのに


と思ってるくらい、
あまり重視していない。


人間の感情は3の法則と言うくらいに、
移ろい変化するものなのだから、


共に在りたいのであれば、

相手に見合うように
日々、成長するしかないのだ。


勿論、

貞操観念を礼賛するのは

人間の感情が不安定なことを
本能的に知っているからこそ、
形や制度で縛りたい

という裏返しではあるが


いつ死ぬかもわからない命において、

「あなただけだ」という証を必要とするのは

人間だけの欲深い行為だなと思う。



貞操帯は、
金属や革といった

重厚な素材で作られている。



その重みを常に肌身で感じることが
自分が貞操を誓う相手への思慕と
同等だと認識することが


物理的な貞操管理を求めたい一面なのだろう。



では、貞操と言う物を

首輪や指輪、貞操帯という
モノ以外で誓いだてる方法は無いのだろうか。



私は、有ると断言する。


それは、


絶対的な崇拝である。



現に、敬虔なカトリックのクリスチャン、
仏門へと下る人、修道院で神に人生を捧げる人は



自分の信仰する神仏へ
貞操を捧げる人生を送っている。



それを禁欲ととるか、
歓びとするかは


人それぞれだと思うが


肉体的な煩悩から解脱してしまえば


自分を物理的に戒めることも
他人による罰則を必要とすることも無い。



あるのは、


自主自律による意志の楔だけである。



どこまで自分を信用し、
自分との約束を守れるか。


それだけなのだろう。



私の友人が尊敬するヨガの指導者は

募らせた思慕を打ち明けられて


人間の我欲から卒業すると
もっと人生は素晴らしいものになると


実に魅力的な笑顔を友人に諭したらしい。



そういう悟りを啓く域に行けないまま
人生を過ごしていくのが
世の常ではあるし、



欲があるからこそ、
創意工夫を凝らすわけだから


揺るがぬ信心や崇拝に至るまでは


物理的な制約の中で
自分を律していくことを選ぶのも


人間的な生き方なのかもしれない。



TAMAKI